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十河の麦づくり

小学生レポート

麦づくり

十河地域の麦づくり

香川県の讃岐うどんは全国的に有名で、うどん県と呼ばれています。でも僕たちは讃岐うどんの原料が小麦だということや、十河地域で麦がたくさん作られていることを地域の人の話を聞いて、初めて知りました。麦づくりをしている地域の人たちの話を聞いたり、麦がりをしたりして、たくさんの人に十河地域の麦づくりについて知ってほしいなと思いました。

さぬきの夢2009

僕たちは、小麦について調べるうちに、香川県独自のブランド小麦の「さぬきの夢2009」があることを知り、詳しく調べてみました。
「さぬきの夢2009」は長い間研究して作られた、さぬきうどん用小麦品種です。今までの小麦と比べて、収穫量が多いことやうどんにしたときになめらかでコシのあるおいしいうどんを作ることができる特徴があります。外国産の小麦を使ったうどんと「さぬきの夢2009」を使ったうどんを食べ比べると違いがはっきりと分かります。
詳しく調べてみて、「さぬきの夢2009」を香川県に住む人に知ってもらったり、全国の人たちにアピールしたりすることが大切だと思いました。

うどんづくり

僕たちは、実際に何度もうどんを作りました。小麦粉に塩水を混ぜるだけですが、なかなかうまくいかず、とても苦労しました。最初に作ったときには、とても固くて、グミのようなうどんができてしまいました。塩水を入れてからの1分間にできるだけ速くかき混ぜたり、生地をのばすときに体重をかけたり、うどんづくりのコツを意識しながら作ると、少しずつおいしいうどんを作れるようになりました。
うどんを作ってみて、うどん屋さんが毎日こんな大変な作業をしてくれているから、香川県はうどんの名産地になれたんだと思います。

お客さんに振る舞う

「十河の香り祭り」では、僕たちが打ったうどんを学校の人たちにふるまいました。食べた人がどんな反応をするか不安だったけれど、「とてもおいしかったよ」とか「僕もうどんを作ってみたい」と言ってくれてとてもうれしかったです。食べた人が喜んでくれるともっとおいしいうどんを作ろうという気持ちになりました。

まとめ

十河の麦づくりと
それらに関わる人々の努力

小麦について調べたり、うどんをつくって食べてもらったりして感じたことは、「多くの人の努力が十河の麦づくりやうどんを支えている」ということです。多くの人の情熱があるからこそ、大変な作業もがんばれるのだと思います。そして、十河地域の人たちは食べてくれる人が喜ぶものを作ろうという気持ちで麦づくりをしているんだと思いました。十河地域には、このようなすてきな気持ちで麦作りをしている人が大勢いることを、多くの人に知ってもらい、みんなが十河地域やそこに住む人たちを好きになっていけばいいなと思います。

地域創生の教育


十河小学校 亀井伸治校長

十河小学校
亀井 伸治 校長

十河小学校では、水曜日の2・3校時を生活科・総合的な学習の時間と位置づけ、全校一斉に「十河の香り活動」に取り組んでいます。この「十河の香り活動」は、十河地域の「水や緑」「歴史や文化」「人の技」に視点を当て、地域のよさ(香り)について調べたり家庭や地域の方と一緒に活動したりすることを通して、地域の発展を願い子どもたちなりに地域創生に取り組もうとする学習です。
1・2年生の生活科では、花や野菜を育たり町探検をしたりお家や地域の方への感謝の気持ちを伝えたりします。3~6年生は、15の課題別グループに分かれ、例えば、お店で働く人と一緒に仕事をしたり、野菜を育てて地域の行事で販売したり、地域の方と一緒に菊づくりに取り組んだりしています。この学習を通して、地域への愛情と誇りをもち、将来の地域社会を担うことができる子どもに育てていきたいと考えています。


十河小農園開き

十河小農園開き

地域の方と菊づくり

地域の方と菊づくり


吉田川

吉田川は、古くは三木町の田中から北走して、姥ヶ池に至り、そこからなお北流して新川に注いでいたそうです。しかし、両河川の合流するところでは氾濫が多かったため、江戸中期ごろに姥ヶ池付近でほぼ直角に西方へと方向転換し、南亀田、東十川の両吉田の方に一直線に流路を開いたそうです。
吉田川という名が示す通り、吉田へ流れ込むためにつけられた、吉田へ通じ南亀田付近の水源に利用する灌漑用水路として開発された河川のようです。
この吉田川は、過去に何度も洪水や砂押しで災害を与えていますが、平素流水のない河川敷は運動場にもなり、戦時中英霊の葬儀場に利用したり、市場に変化したり、時には仏増の鋳場に利用されたこともあるそうです。


吉田川

今ではすっかり整備され、見通しのよい土堤になりましたが数年前まで、吉田川の西側の土堤はうっそうとした雑木林がありました。十河校区には里山がなく、その雑木林が里山の代わりだったのです。鳥たちの子育ての場所でもあり、夜は多くの鳥達のねぐらとなっていました。夏にはカブトムシやクワガタムシなどを見つけることができました。 昔の人の言い伝えでは、夏のある夜、吉田川の東の方から土堤の方を見たら、きれいな提灯行列が見えたそうです。それは、キツネの嫁入りの行列だったとか。 また、夜酔っ払いがその土堤を通ると、いくら歩いても前に進めず、朝が来たらヤブの中に顔を突っ込んで足ぶみをし続けていただけだったなど、逸話がたくさんあります。キツネやタヌキが人を化かすという昔話が、吉田川にもあったのです。



小学生レポート

母なる川・吉田川を未来につなぐ

まずは吉田川の調査から

みなさんは、十河地域に流れている吉田川について、どんな川だというイメージがありますか?
私たち飲み水グループは、この吉田川を中心にして学習を進めていくために、まずはこの1年間でどんな学習にしていくかを話し合い、いくつかの問いを考えてみました。
「水がどこから来るのか?」「川の自然やすんでいる生き物はどうなっているのか?」「自然の水をどのように飲み水にしているのか?」「これからもこの吉田川を守っていくにはどうすればいいのか?」といった疑問を解決するために、地域の方や関係機関の方の協力を得ながら、調べたり体験したりしていきました。

吉田川の様子は?
実際に見学することから始めよう!

まずは、吉田川へ行って様子を見てみることにしました。旧吉田橋の上から見ると、まず目についたのは、たくさんのカメやコイでした。とても気持ちよさそうに泳いでいて、すごくかわいかったです。また、シラサギなどの鳥も飛んできて、ゆっくりと休憩していました。
でも、一方でたくさんのゴミもうかんでいました。ペットボトルにおかしの袋、缶やびんまでありました。そういったゴミのせいなのか、川の流れが変わるところでは茶色い色をした汚い泡がたくさんできていました。そこで、川の水をくみ取って水質検査をしたり、川の様子をスケッチしたりしました。水質検査の結果から、やはり川の水は少し汚れていることが分かりました。


どんな生き物がいるの?
吉田川での調査・探検活動をしよう!

次に、吉田川に入って川の様子を調べることにしました。水の流れが浅い沖下橋に行き、川に入っていろいろな生き物を探しました。魚を捕るために網ですくってみましたが、最初はなかなか捕まえられませんでした。そこで、いろいろな人にアドバイスをいただきながら、魚や水生生物をとることにチャレンジしました。
魚は、網を草むらのあたりに近づけて両側から追い込んだりすることで、ドジョウやシマエビなどがたくさんとれました。また、水生生物についても、じっくりと調べてみることにしました。特に小さな水生生物は石の裏に注目して調べることにしました。すると、カワニナやタニシ、トビゲラ、イシマキガイなどが見つかりました。また、ヒシという生き物もたくさん流れていました。これは、もともとため池で生息している生き物で、吉田川がため池とつながっていることがよく分かりました。


どうやって飲み水に?
水のろ過実験をしよう!

吉田川での調査から、わたしたちが普段当たり前に見てきた吉田川には、たくさんの自然があることがよく分かりました。ただ、この自然の水は汚れているので飲むことはできません。そこで、出前授業をしていただき、自然の水をどうやってきれいな飲み水にしているのかを教えていただき、実際にろ過を体験することにしました。
ろ過実験そうちには、砂利や砂、活性炭やガーゼなどを材料にして、グループごとに組み合わせを考えながらペットボトルに詰めていきました。実際の浄水場のようにはきれいにできませんが、この実験をすることできれいな水をつくる仕組みがよく分かりました。また、実験前の水が汚いほど、きれいな水をつくるのにはかなりの手間と労力が必要だとも感じました。


大切な吉田川をきれいに!
香の川ボランティア

私たちの地域では、「吉田川を美しくする会」が主催して、年に3回、吉田川ボランティア清掃を行っています。私たち飲み水グループにとって香り活動の中心となる吉田川でのボランティア活動ということで、飲み水グループからもたくさんの友だちが参加しました。清掃をしてみると、たばこの吸い殻や空き缶、ペットボトルやお菓子の袋など、たくさんのゴミが出てきました。ボランティア清掃を通じて、ゴミを捨てない、校区の川をきれいにしたいという願いが強くなりました。


まとめ

大切な吉田川で学び、その素晴らしさを伝え、守っていきたい!

吉田川での調査・探検活動を通して、今まで私たちが何気なく接してきた地域に流れる吉田川には、たくさんの素晴らしいところがあることを強く感じました。夏の暑いときに魚をとったことや友だちと協力して水生生物や水質の調査をしたことはとても心に残っています。私たち十河に住む人にとって、吉田川は「十河の香り」の1つなのです。
でも、その素晴らしいところを守っていくためには、まだまだしていかなければいけないことがあることも分かりました。これから自分たちに何ができるのかを考えて、発信していきたいです。


こんぴら燈籠・壷井六五郎

こんぴら燈籠

献灯や常夜灯として使用されていた燈籠。こんぴらさんに通ずる南海道への道しるべとして使用されていたものや、金毘羅参詣が盛んになってから講中によって建立されたものがあります。旧南海道沿いにある3基を含め、十河校区に全部で9基あります。様々な事情や開発で、当時より移設されているものもあります。
庶民の道案内役、夜は明かりを灯し、道中の安全を願って建立されました。燈籠には、石灯籠型と自然石型灯籠があり、自然石型灯籠には、八日月・満月などが彫られています。また、神社境内に置かれているものは、火袋に動物や雲の模様が彫られています。立ち止まりじっくりと観察してみては。


こんぴら燈籠 小村師子王神社内

1.小村師子王神社内

こんぴら燈籠 北下所十河豊氏宅西側

2.北下所十河豊氏宅 西側

こんぴら燈籠 沖川西霞土手突き当たり森安清氏宅東側

3.沖川西霞土手 突き当たり
森安清氏宅東側

こんぴら燈籠 藤の森神社内

4.藤の森神社内

   

こんぴら燈籠 十川西町沖下所壺井本家南方(高橋ふとん東)

5.十川西町沖下所 壺井本家南方
(高橋ふとん東)

こんぴら燈籠 権現堂吉田神社西北

6.権現堂
吉田神社西北
 

こんぴら燈籠 十河コミュニティセンター北西

7.十河コミュニティセンター北西

こんぴら燈籠 旧吉田橋南側

8.旧吉田橋南側

こんぴら燈籠 十川西町西尾光清寺南方三辻(おばけ燈籠)

9.十川西町西尾光清寺
南方三辻
(おばけ燈籠)

★ 石灯籠型の5基はこんぴらさんへの道しるべ。
  笠に 金 、竿に御神燈・御奉燈と刻まれている。
※吉田神社西北隅の燈籠は、江戸時代金毘羅参詣が盛んになり、夜中に南海道(現市道川島吉田線)を往来する参拝者の為に壷井家が建立したと思われます。
※三日月は、三日月の日に寄り合いをしようという目印。
※お講:その地域の皆でお金を出し合って順番に使うという風習があった。


こんぴら燈籠

江戸時代の大庄屋 壺井六五郎忠弘


壺井六五郎忠弘の墓

名は忠弘、六五郎はその通称です。六五郎、実は岡安通の子ですが、十河村の叔父、壺井忠清の養子となって、壺井家を継ぎました。その後、住まいを山田郡十河村に構えることになります。
人に対してねんごろで人情に厚く、節約にも努め、農業にも力を注ぎました。元々家は裕福ではありませんでしたが、彼の善い行いはめぐりめぐって広まりました。元々無名でしたが、秩禄の多くを施し与えたので、人々から大変慕われました。親戚の者も郷里で困った人々をよく助け、長年雇っている奉公人には土地と家を買い与えました。また、金銭を献上することを重んじ、郷里のために役立てました。これは、昔の人が「殖財能施(財を殖やしてよく施す)」というところのものです。喜んだ人々は自分のものを差し出し、彼のもとを出入りする人は数え切れないほどでした。
その財産家の故、安永6年(1777)村の里正(庄屋)となり次いで山田郡の大里正(大庄屋)となり、郡内で広く政治的な功績を挙げました。特に、灌漑用水の需要拡大に伴い、池溝(うなて:田に水を引くための溝)の普及改修事業に努め、神内池の改修工事の他、木太の新池や古高松の谷池などの改修も行いました。更に、詰田川では海に近く満潮時には橋桁と海水面が狭く荷物の海上輸送ができなかったため、橋を付け替えて舟の通行に便宜を図りました。
その他、氏神鰹宇八幡神社にも神田を寄付したり、社会福祉のためにつくす所も多かったので、藩でもその功績が認められ、要職に就いていました。


芭蕉の句碑

大庄屋・六五郎が、高松藩主より200石賜った年、供養塔として建立したと思われます。
句は「野ざらし紀行文」貞享元(1648)年8月江戸・吉野・山城・伊賀・翌年に尾張を経て、江戸に帰った旅をまとめた一句です。


【句碑】
野(の)ざらしを
心(こころ)に風(かぜ)の
しむ身哉(みかな)

忠弘誌(しるす)

十川西町壺井家墓所地内
安永6(1777~78)年頃・建立


句の意味は、道に行き倒れて白骨を野辺にさらしてもと、覚悟決めて旅立とうとすると、ひとしお秋風が身にしみること。
この句碑は、香川県にある20の芭蕉翁の句碑の中で最古のものであることがわかっています。六五郎も、里中の人たちのために、野辺に行き倒れても尽くす覚悟と、己の心境を、自然石に自筆、刻ませたと思われます。
※鰹宇神社参道左右にある「狛犬」さん。この狛犬さんは、六五郎の息子六三郎が父の職を継いだ翌年文化13年(1816)に氏子の無病息災を祈願して建立したものです。産の宮の鳥居や正門前の常夜灯、手水舎なども六五郎の寄進です。


大庄屋六五郎

幕末には讃岐国内に約400の村があり、十河村には(東十川・西十川・南亀田・小村)各村を担当する庄屋が1名、山田郡(植田・池田・坂本・蘇甲・三谷・田井・拝師・本山・高松・宮所・喜多(11の郷))は、西十川の壷井忠弘、前田村の前田美雅2名の大庄屋がいました。
大庄屋壷井忠弘は、安永7(1778)年に200石拝命、土塀に囲まれた屋敷に入るには、大人が抱えるくらいの松が屋敷に沿って植えられた、二間余の馬場道通りがありました。大手門・長屋門構えの屋敷内には、政治・経済・生活・文化などを伝える資料がぎっしり詰まった倉がありました。東側に馬洗い池、南側には武術稽古道場・寺子屋などがある大屋敷に住み、郷の行政役を勤めていました。忠弘は、頭はちょんまげ、羽織袴、大小の刀を差して馬又は籠に乗り、家来5人衆を従え山田郡内を奔走し、村々の百姓からの願い出や藩からの通達の役目、年貢や夫役の徴収も大庄屋が行っていました。


石仏・供養塔・七福神

石仏

水路沿いや池の堤に立つ、地蔵さん、石仏さん。
その地蔵さんに関するむかしばなしが今も多く残されている。

願掛け石(いぼ石さん)


西尾公民館東側に薬師堂があります。境内に通称『西尾のいぼ石さん』という願掛けの自然石があります。昔から庶民の素朴な願いによる御利益が自然に世間に広がって祈願されています。
口承によると、『いぼ(皮膚上に突起した円形の塊。原因の多くはウイルスで、伝染することもある)』を願掛け石に当てて年の数だけ擦ります。擦り終えると北側の絶えることのない湧き水が出る堀(現在は埋立地)の水を頂いて、局部を洗い流すと治ったということです。

首切り地蔵


大庄屋壷井六五郎が地区内の見回り中、この場所に灯りが見え、中を覗くと娘さんが白い飯を食べている姿を見つけその娘をしかりつけました。翌日その家に行き問いただすと、それは丸い白粒の飲み薬だったので、大庄屋はタヌキのいたずらだったことに気付き、謝罪してその年の年貢を免じたそうです。

北向き地蔵


おちらし地蔵



昔、母娘連れの巡礼が当地にさしかかり、娘が急に咳き込み七転八倒苦しんだそうです。母がおろおろして困っているとき、ひとりの婦人が現れ「これをはねなさい」と言って立ち去ったそうです。娘はおちらしはねるとうそのように治ったそうです。おちらしを与えた婦人は西の方500mのところにある薬師堂近辺に住んでいたタヌキで、現在も薬師堂内に祭られています。

おちらし・・・はったい粉
はねる・・・飲む


北門地蔵


称念寺の北門に空洞があって空堀にからくり橋をかけ、長宗我部軍をたくさん戦死させたので亡霊が出るといわれている。

供養塔


死者や先祖の供養のために建てる石塔。
戦国時代に討ち死にした者を弔い建てられた供養塔が、十河には多いとみられています。
時代と共に供養塔が朽ちて、一番上の宝珠の部分だけが残っている場合があります。
この宝珠は、時代によって少しずつ形が違うようです。
みなさんの家の田や畑に、このような形の塚が残っていませんか?


亀田南町の供養塔

亀田南町

十川東町の供養塔

十川東町


供養塔の宝珠

そごうの七福神

十河校区の称念寺(十河城跡)周辺に点在する石神さまは、悪霊や疫病が地区へ侵入するのを防ぐ「さえの神」であったり、道行く人を守護する「みなとの神」であり、除災招福、病除け、作物の生育など万能の神様といわれています。古くから『七福神』として祭られていて、弁財天は鷺池のほとりに祀られており、布袋と福禄寿は大きなクスノキのたもとに並んでいます。


そごうの七福神 恵比寿(漁業・商売繁盛の神)

1.恵比寿(漁業・商売繁盛の神)

そごうの七福神 大黒天(食物・台所の神)

2.大黒天(食物・台所の神)
 

そごうの七福神 毘沙門天(財産を守る神)

3.毘沙門天(財産を守る神)
 

そごうの七福神 布袋(平和の神)

4.布袋(平和の神)
 

そごうの七福神 福禄寿(幸福・富貴・長寿の神)

5.福禄寿(幸福・富貴・長寿の神)

そごうの七福神 寿老人(長寿を授ける神)

6.寿老人(長寿を授ける神)
 

そごうの七福神 弁財天(水神)

7.弁財天(水神)


伝承

宝地(ほうじ)の農村歌舞伎


宝地の農村歌舞伎

古い伝統的なその土地の風土性というものではないが、昭和初めごろから、戦時中になるころまで、東植田村に近い十河南部の宝地では東植田の青壮年有志と互いに連携しながら、歌舞伎芸を演じたもので、主として神社の奉納をねらったお互いの慰安興行でもありました。
したがって、出演は宝地の權現堂や外山の天神、西の岡の若宮さんなどで行われましたが、その他では十河の小学校庭とか東宝地の畑地などを会場に持ったこともありました。
急造で間に合わせたものの、のぼりとか横幕、舞台には涼み台、照明にはガス燈などを使用しました。
入場料はとらず「花」を出させ、幕合を利用して「花のお礼を申し上げます−」で幕合の披露で引き立てたものでした。

師匠と語り 中尾の岡小三郎(芸名 片岡歓雀)
三味線   西植田のお千代さん
衣装    南亀田の藤井彌太郎さんから借用

片岡歓雀

明治18年8月4日生まれ、中尾の人。本名は岡小三郎。幼くして関西歌舞伎を修業、帰省後は農閑期を利用して春秋に神社等で奉納する素人芝居の振り付けをしていました。
出演者も芸が上達して近在の村でもこれに真似て上演するようになり、彼は多忙を極めたようでした。
主として指導に行った土地は判明分だけでも次の通りです。
まず地元「宝地」、地続きの「東植田村岩破」、川島の「宮谷」「宮尾」、川添の「下田井」、池戸の「井上」「藤田」「川東」「安原下谷」等々で招きがあれば遠近を問わずに出向いていました。
彼の指導した浄瑠璃芝居安原下谷の農村歌舞伎は昭和40年、県指定の無形文化財として花開いたが岡小三郎の陰の功労はあまり知られていません。

天の岩戸かぐら


天の岩戸神楽用具

天の岩戸神楽用具

明治、大正、昭和時代、小村下所地区に農家の長男だけが参加できるおかぐらがあり、各地域の春秋の氏神様はもとより、荒神さんなど小さな祠(ほこら)のお祭りに招かれて奉納していました。

吉田のお潅頂(かんじょう)さん


旧吉田橋の東側に「南無阿弥陀佛」と書かれた大きな墓があります。慶応2年8月東讃地方を襲った集中豪雨(台風と思われる)のため、大荒となり、その後数年間、餓死、流行病、凍死等による死者は数えきれず、この死者を慰めるとともに、この惨状を後世に伝えんと近隣の有志にて、明治20年4月建立したとあります。
毎年5月16日に農道具の市が立ち「吉田のお潅頂さん」として多くの露天商が川中や、その周辺に立ち並び、川中では法要のあと浪曲を行うなど、近隣からの参詣者でにぎわっていました。昭和16、7年ごろより戦争のため地元の人々のみで今も法要を行っています。

小村(おもれ)青年団


昭和初期ごろ、小村の青年団が納屋に寄って、楽器の練習をしたり芝居の稽古をしたりしていました。農閑期にみんなが集う娯楽でした。民家の軒先にステージを作って演奏したり住吉神社だけでなく、呼ばれれば前田や西植田などいろんな所に出向いていました。

檀原(だんばら)の盆踊り


第二次大戦後これという娯楽もなかった当時、檀原には娘さんが多かったのと佃明義氏がいたのと相ともない、娘さんの中へ男性も少し加わり、最初は一合まいただけの踊りだったが、川島小学校校庭の盆踊り大会で川島地区が新しく川島音頭を作り、踊りの新鮮さもともなって川島地区が優勝しました。これにより十河も来年は新しく歌を作らなければ優勝出来ないということになり十河音頭の誕生となりました。この翌年より各地区で優勝するようになりました。

器楽コンクールで全国大会2位入賞


第二次大戦後の物不足の時代、学校教育の現場も当然影響されました。音感教育の面で十河小学校で非常に優れた成果を収めています。
第11回ハーモニカ器楽コンクール西日本大会に出場を機に昭和28年12回西日本大会では3位に入賞、翌29年にも3位入賞、30年14回大会では2位に31年7月第15回大阪で行われた西日本大会では優勝、同年12月第17回全日本学生ハーモニカ器楽コンクール全国大会に出場して 第2位になっています。全国大会の会場は東京明治大学講堂でした。

あとがき

今回、平成21年に発行された「十河校区史跡マップ」の改訂版として、内容をより充実させてこの冊子を作成しました。十河小学校を始めとして本当にたくさんの皆様にご協力をいただき、この冊子が無事完成しましたことを、厚く御礼申し上げます。
先人の知恵と功績で現在の十河があることに感謝し、地区住民の皆様や後世の子どもたちに歴史ある十河を伝えていければ幸いです。
なお、慎重に調査を重ねて参りましたが、内容に不備・誤字等ございましたらご容赦くださいませ。

平成28年3月 十河校区コミュニティ協議会
ゆめづくり実行委員会