鰹宇(かつう)神社
鰹のとれないさぬきで鰹宇神社って、めずらしい名前の神社だと思いませんか?
なぜ鰹宇なのかというと、大化の改新(645年)の頃、摂州森口にたてまつられていた神様を、森口帯刀さんが、夢のおつげで讃岐にお連れしたとき、瀬戸内海を渡るのに、土佐から朝廷に奉納する鰹をのせてきた戻り船に便乗させてもらったという言い伝えがあるからだそうです。
なぜ十河に来られたかというと、神様を奉じた森口帯刀さんが讃岐についた時、火の玉が落ちるのを見て、この十河の地を神様の地と定めたのだそうです。そのあとには、「落神様」をお祭りしていました。
江戸時代以前、多くの寺社が神仏混合でした。けれども鰹宇神社と隣の松宇神社(川島)は神道のみを奉じていました。多くの氏神様が八幡神社を名乗っていますが、八幡大菩薩を奉る神社という意味なので、この二社はその称号を使っていません。
このような宗教上のこだわりを持った両社の森口・東原氏は、幕末の国学の流行や、明治維新後の神道復興の時に、この地域の教育や神社の復興に大きな影響を与えました。
また、地神社・金比羅社の北となりには、背の高いほこらがあります。これは、豊玉姫命を奉った雨ノ宮神社です。雨乞いの神様だそうです。経塚を奉るほこらや、絵馬堂、神馬などがあります。
随身門
随身門に矢を背負い、雛人形の左・右大臣のような姿をした像があります。平安時代の武官が正装し、貴人に随(したが)う姿で随身とよばれますが、随神とも書きます。
「江戸名所図会」によると、豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどの
みこと)の、二神像といわれ、随身が神に仕え護衛する者というより、これもまた神であるという信仰で造られ、「隋神」ともよばれたことがわかります。
この随身門のある神社は貴重で、とても格式の高い神社なのだそうです。
産の宮
お産の神様。
現在の東洋テックス十川工場の敷地内に「産の宮」がありました。現在氏神鰹宇神社境内に遷されていますが、これを氏神境内に奉遷したのは、大正初年の小社合祀の勧誘によるものだったようです。このお宮の氏子は中尾自治会ですが、ここに遷した年は周りの農作物が害虫被害で全く収穫がなかったそうです。
地域の氏神
鰹宇神社は、十川東町・十川西町・亀田南町の氏神様ですが、小村町の南下所・北下所は川島の松宇神社、高野・本村は前田の八幡神社を氏神様としています。