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伝承

宝地(ほうじ)の農村歌舞伎


宝地の農村歌舞伎

古い伝統的なその土地の風土性というものではないが、昭和初めごろから、戦時中になるころまで、東植田村に近い十河南部の宝地では東植田の青壮年有志と互いに連携しながら、歌舞伎芸を演じたもので、主として神社の奉納をねらったお互いの慰安興行でもありました。
したがって、出演は宝地の權現堂や外山の天神、西の岡の若宮さんなどで行われましたが、その他では十河の小学校庭とか東宝地の畑地などを会場に持ったこともありました。
急造で間に合わせたものの、のぼりとか横幕、舞台には涼み台、照明にはガス燈などを使用しました。
入場料はとらず「花」を出させ、幕合を利用して「花のお礼を申し上げます−」で幕合の披露で引き立てたものでした。

師匠と語り 中尾の岡小三郎(芸名 片岡歓雀)
三味線   西植田のお千代さん
衣装    南亀田の藤井彌太郎さんから借用

片岡歓雀

明治18年8月4日生まれ、中尾の人。本名は岡小三郎。幼くして関西歌舞伎を修業、帰省後は農閑期を利用して春秋に神社等で奉納する素人芝居の振り付けをしていました。
出演者も芸が上達して近在の村でもこれに真似て上演するようになり、彼は多忙を極めたようでした。
主として指導に行った土地は判明分だけでも次の通りです。
まず地元「宝地」、地続きの「東植田村岩破」、川島の「宮谷」「宮尾」、川添の「下田井」、池戸の「井上」「藤田」「川東」「安原下谷」等々で招きがあれば遠近を問わずに出向いていました。
彼の指導した浄瑠璃芝居安原下谷の農村歌舞伎は昭和40年、県指定の無形文化財として花開いたが岡小三郎の陰の功労はあまり知られていません。

天の岩戸かぐら


天の岩戸神楽用具

天の岩戸神楽用具

明治、大正、昭和時代、小村下所地区に農家の長男だけが参加できるおかぐらがあり、各地域の春秋の氏神様はもとより、荒神さんなど小さな祠(ほこら)のお祭りに招かれて奉納していました。

吉田のお潅頂(かんじょう)さん


旧吉田橋の東側に「南無阿弥陀佛」と書かれた大きな墓があります。慶応2年8月東讃地方を襲った集中豪雨(台風と思われる)のため、大荒となり、その後数年間、餓死、流行病、凍死等による死者は数えきれず、この死者を慰めるとともに、この惨状を後世に伝えんと近隣の有志にて、明治20年4月建立したとあります。
毎年5月16日に農道具の市が立ち「吉田のお潅頂さん」として多くの露天商が川中や、その周辺に立ち並び、川中では法要のあと浪曲を行うなど、近隣からの参詣者でにぎわっていました。昭和16、7年ごろより戦争のため地元の人々のみで今も法要を行っています。

小村(おもれ)青年団


昭和初期ごろ、小村の青年団が納屋に寄って、楽器の練習をしたり芝居の稽古をしたりしていました。農閑期にみんなが集う娯楽でした。民家の軒先にステージを作って演奏したり住吉神社だけでなく、呼ばれれば前田や西植田などいろんな所に出向いていました。

檀原(だんばら)の盆踊り


第二次大戦後これという娯楽もなかった当時、檀原には娘さんが多かったのと佃明義氏がいたのと相ともない、娘さんの中へ男性も少し加わり、最初は一合まいただけの踊りだったが、川島小学校校庭の盆踊り大会で川島地区が新しく川島音頭を作り、踊りの新鮮さもともなって川島地区が優勝しました。これにより十河も来年は新しく歌を作らなければ優勝出来ないということになり十河音頭の誕生となりました。この翌年より各地区で優勝するようになりました。

器楽コンクールで全国大会2位入賞


第二次大戦後の物不足の時代、学校教育の現場も当然影響されました。音感教育の面で十河小学校で非常に優れた成果を収めています。
第11回ハーモニカ器楽コンクール西日本大会に出場を機に昭和28年12回西日本大会では3位に入賞、翌29年にも3位入賞、30年14回大会では2位に31年7月第15回大阪で行われた西日本大会では優勝、同年12月第17回全日本学生ハーモニカ器楽コンクール全国大会に出場して 第2位になっています。全国大会の会場は東京明治大学講堂でした。

あとがき

今回、平成21年に発行された「十河校区史跡マップ」の改訂版として、内容をより充実させてこの冊子を作成しました。十河小学校を始めとして本当にたくさんの皆様にご協力をいただき、この冊子が無事完成しましたことを、厚く御礼申し上げます。
先人の知恵と功績で現在の十河があることに感謝し、地区住民の皆様や後世の子どもたちに歴史ある十河を伝えていければ幸いです。
なお、慎重に調査を重ねて参りましたが、内容に不備・誤字等ございましたらご容赦くださいませ。

平成28年3月 十河校区コミュニティ協議会
ゆめづくり実行委員会