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ホームわたしたちのふるさと 十河義民 小村田之助(おもれたのすけ)

義民 小村田之助(おもれたのすけ)

義民(ぎみん)・・・世のため人のために一身を捨てて尽くした人のこと

田之助は、寛永元年(1624)小村の庄屋の家に生まれ、寛永19年19歳の時に、病身の父親から庄屋職を引き継ぎました。寛永19年は松平頼重が高松藩初代藩主になった年で、これから藩を経営していこうとしていた時でしたが、藩内の農民はうち続く飢饉でほとほと困窮し、餓死者が出るほどでした。
この状態を見かねた田之助は救済のため、年貢を11月に8分、6月に2分というように分納させてもらえるよう、もし納付ができない者がいた時には田之助の私財で納付する旨を藩に願い出たのです。
農民の強訴は死罪だった時代です、田之助の願いは自らばかりか一族の命もかけた上訴だったのです。藩は田之助の意見を取り入れて分納を認めたのですが、田之助には厳しい処分が下されることとなりました。
農民たちや、若く優秀な田之助の才能を惜しんだ人たちは助命を嘆願しました。しかし、小姓の大村兵蔵という者が「決まりは決まり、一度許すと末代まで悪政を残す。」と意見し、寛永21年4月24日、上福岡の一本松で打ち首になりました。このとき赦免状が発せられましたが、あと一歩で届かず斬首されたとも伝わっています。
農民たちは、高い志をもち皆の犠牲になった若い田之助の死を悼み弔いを続け、彼の死から222年後の慶応2年(1866)に宅地跡に墓を建立したそうです。今も本村・高野自治会の方々が、命日に田之助の墓の供養を続けていらっしゃいます。


小村町高野にある小村田之助の墓

小村町高野にある小村田之助の墓

小村田之助の墓近くにある石碑

墓近くにある石碑

小村田之助の法要

毎年、4月24日の命日には法要が行われている。

田之助処刑場跡の碑

田之助処刑場跡の碑(木太町)
寛永21(1644)年4月24日 享年21歳でした。

白旗神社

白旗神社(木太町)
藩主松平頼重は罪一等を減じようと馬で急使を走らせ、間に合わないとみた急使が馬上から白旗を振って処刑の中止を知らせようとしましたが、刑場役人は「早くしろ」の合図と思い、処刑してしまったという話が伝えられています。その後、地元民たちは、白旗を振ったと伝えられる所に小社を建て田之助を祀りました。

田之助の死を悲しむ歌が伝えられています。

小村田之助19で世帯 はたち(20歳)1期は、木の空に
小村田之助最後の時は おせ(大人)も子供も、空飛ぶ鳥も
涙こぼさぬ者はない
小村田之助羽織の紋は、枡にとかきに帳に参盤
年貢改正で蔵納め

小村田之助の紙芝居