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十河一存(かずまさ)・存保(まさやす)

小学生レポート

十河一存ってこんな人!!

十河一存は戦国時代の武将です。父は徳島県の三好実休、兄が三好長慶です。兄の三好長慶は足利将軍から桐の家紋を授かりました。これは織田信長も使っていた家紋だそうです。それほど権力があったことが分かります。兄は徳島県の阿波を、弟の一存は讃岐の十河を治めていたようです。十河城は1300年代に建てられたお城です。また一存は数々の戦いで強かったことが伝えられています。
ここで十河一存が鬼十河と呼ばれたエピソードを紹介します。


十河一存の木像

十河一存の木像

小学生が作ったキャラクター 一存くん

小学生が作ったキャラクター 一存 くん

エピソード1

寒川氏との戦いで十河一存は左腕にけがをしました。そのとき、痛みを悟られないようにしたそうです。ツタで止血し、傷口に塩を塗り込んで消毒をしたそうです。藤のツタを包帯代わりにして傷口に巻いて、再び戦場で猛然と槍を振るったそうです。想像するだけで痛そうですが、けがをしていることが周りの人にはばれなかったそうです。このため、一存は「鬼十河」(鬼十川)と呼ばれて敵に恐れられました。その武勇から家臣たちからも信望厚く、一存の髪型は「十河額」と呼ばれて、真似する家臣も多かったそうです。

エピソード2

しかし、十河一存は別に目立ちたがったというわけではありませんでした。彼は脂性だったのかもしれず、長時間、兜をかぶっていると、オデキができました。汗でべとついた頭髪が兜の下でむれてしまうのが原因だったそうです。
特に汗っかきの一存の場合は、夏場がきつく、かゆかったそうです。臭いもたまりません。そこで、前髪をぜんぶ引き抜き、さらに月代を大きく広げて剃ってしまった、というのが「十河額」の起源でした。

エピソード3

一存は病気になり、有馬温泉に湯治中、松永久秀がお見舞いに来ました。この時、有馬権現へ詣でる一存が葦毛の馬に乗っていたのを見て、久秀は言ったそうです。
久秀「権現様は葦毛の馬を嫌うから、別の馬に乗りかえられい」
一存は虫が好かない久秀の言うことなど聞かずに出かけ、落馬してしまいました。この時の傷がもとで急死した、と伝えられている説もあります。兄たちの年齢から計算すれば、まだ三十前後だったはずです。すぐ上の兄・安宅冬康も、久秀の助言によって長慶に誅殺されています。一存のあっけない死も、なんだか非常にあやしい話なので、この話が本当かどうかも分かりません。死亡したという日(三月、四月、五月など)も様々です。しかも、一存の墓は今でも讃岐の十河城の一画にあり、彼は城内で亡くなったといわれているからです。


十河物語の紙芝居

十河物語の紙芝居


十河存保って何をした人なの?

存保は、もともとは徳島の三好家に生まれ、養子として十河家にやってきました。そして8才のとき、鬼十河と呼ばれていた十河一存の後を継ぎました。19歳のときに上桜城という城を攻め、てきの大将をうちとったそうです。このことから存保は戦上手と言われています。その後は四国を支配しようとする長宗我部氏と戦い(中富川の合戦)、最後は大分県の大野川というところで討ち死にします(大野川の合戦)。
戦上手と呼ばれていたこともすごいと思いましたが、ぼくたちが一番すごいと思ったのは、九州の大野川で討ち死にした存保たちをとむらうための石碑が、今でも大分県で大切に残されていることです。最後は討ち死にしてしまったけれど、その土地で大切に石碑が残されています。


十河存保の木像

十河存保の木像

小学生が作ったキャラクター 存保くん

小学生が作ったキャラクター 存保 くん

十河氏の墓所

十河氏の墓所

大分県 十河一族の慰霊碑

大分県 十河一族の慰霊碑


大分大野川合戦まつり
大分の大野川まつりでは、四国勢として、讃岐の十河と土佐の長宗我部が毎年参加しています。


十河小 十河の香り活動(城グループ) 手作り甲冑で

十河小 十河の香り活動(城グループ) 手作り甲冑で


まとめ

十河一存・存保のことをたくさんの人に知ってもらいたい!!

十河に住んでいる人でも、まだまだ十河一存・存保について知っている人は少ないんだなと思いました。ぼくは十河一存・存保のことを調べて、十河にそんなすごい武将がいたことがうれしかったし、今住んでいる十河の地域がもっと好きになりました。だから、これからもっとたくさんの地域の人に十河一存・存保のことを知ってもらって、一存・存保のことも十河の地域のことも、もっと好きになってもらえたらいいなと思っています。