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十河(そごう)城


十河城はいつごろからあった?

室町幕府最初の頃には十河氏が武士団を率いていたと分かっているので、その頃には十河(十川)に城があったと考えられています。

どんなお城だった?

阿讃山脈から高松平野に向かって伸びる尾根の突端に築かれていました。この尾根は同じような高さ形のものが十数本連続しており、間の谷は護岸工事されていない川や湿地だったので、土地に不案内な者は迷います。 
十河城のあった尾根の土は、壁土に使う粘土が厚く堆積しており、堀(大きな溝)や土塁(土の壁)を作るのに便利でした。乾くとカチカチ、濡れると表面がヌルヌル。
城と言っても天守閣を持つ大きな城ではありません。もともとの地形を利用し、堀や土塁を巡らせ内側に住居や見張り台、武器・兵糧の倉が建てられたものです。
城の中心部分は現称念寺ですが、東の檀原の尾根に砦・南の出火山(だしやま)に烽火台・西の湿地の谷から西岡の尾根へと渡る抜け道があり、この一帯を広く使って城の守りとしていました。

長宗我部との戦はどんなだった?

土佐(高知)の長宗我部が四国を全部自分の領地にしようと戦を始め、四国で長宗我部に刃向かうのは十河だけになってしまいました。そのことはだいぶん前から分かっていたので、味方の織田信長に助けを頼んでいましたが、本能寺の変の混乱で、十河だけで四国中を敵として戦うこととなりました。
城の東にあった寺では、本尊仏を井戸の中に隠したと伝えていることから、御先祖様たちはかなり覚悟して戦に臨んだと推測できます。
天正10年(1582)秋、城に立て籠もり、谷筋を攻めてくる長宗我部軍を東西の尾根から挟み撃ちしたり、空堀に渡したからくり橋を外して城内に入った敵を襲ったりとよく戦いました。長宗我部は兵糧攻めに切り替え持久戦となります。閉じ込められた城では、忍者の前田甚之丞が抜け道を通り、敵陣に大将の寝首を掻きに忍び込んだものの、もう少しの所で失敗し戦は終わりません。城内は兵糧・矢玉も不足し、餓えがひどくなります。
粘りも虚しく、天正11年(1583)5月十河城は長宗我部にあけ渡されました。
戦中、前田甚之丞は食料を手に入れるためにも城を抜け出し、近隣から強奪したので皆から恐れられる存在となり、戦の後には土地も人心も荒れてしまいました。

今も残る城の名残

十河家の墓所

城跡(現称念寺)北

毘沙門天

城跡北東 城の鬼門にまつられている。

空堀(からぼり)跡

城跡北 東西に伸びる窪地がから堀の跡。からくり橋が架けられていた。

弁財天

城跡南西 城の毘沙門天の反対側に、毘沙門天の妻とされる弁財天をまつる。

北門の地蔵

城跡北 ここで戦って亡くなった沢山の兵士を供養するためにまつられた。

久保佐渡守屋敷跡

城跡東 十河氏家老の屋敷跡。

馬の墓


城跡北東 十河氏の家臣で馬医者でもあった池内氏の馬の供養墓。

孝女以呂の墓


東十川村宗三郎の娘、以呂の墓である。以呂は江戸時代中期、病弱で年老いた父母に、我が身を顧みず孝養を尽くしたことにより、藩公からほうびとして米三俵、銀五貫匁を賜った。この君恩に報いるため、毎月お城を拝みに行くことを常とした。死後その忠孝を後に伝えるため、村人が墓を建てた。

椙尾(すぎお)神社の鰐口(わにぐち)と豆太鼓


椙尾神社

椙尾神社には、高松市指定の文化財「鰐口」が伝わっています。鰐口とは、自社の拝殿に下げて布で編んだ網で打ち鳴らす鐘の仲間で、分かりやすく言えば、ドラのようなものを裏表にひっつけて下半分だけすき間をあけているものです。指定文化財になるくらいですから、「讃州山田郡十河郷椙尾大明神 大師堂 天心 文和三甲午年三月三十一日」の銘があり、室町時代初期のものでは香川県では一番古いものだそうです。
この鰐口にも「大師堂」と書かれていますが、ここには真言宗の神仏混合寺院がありました。古くには、神社の北東に護摩堂という地名も残っていたそうです。鰐口も護摩堂付近から出土したということです。十河城があった時代には、檀原地区も城下としての守りの一端を担っていました。特に城の鬼門の守りだった椙尾神社は、手厚く奉られていたと思われます。けれども、長宗我部氏との合戦の時に焼失してしまいました。
このほかに、椙尾神社には、こんな昔話のある太鼓が伝わっています。


高松市指定の文化財「鰐口」

椙尾神社に伝わる高松市指定の文化財「鰐口」

椙尾神社 豆太鼓

「豆太鼓」


昔々、椙尾神社の境内で赤い斑点のある牛が死んでいました。みたことのない牛でしたが、やさしい村人がていねいに葬ったところ、そこから一本の豆の木が生えてきて、みるみるうちに天にも届く大木になりました。ある夜、夢に牛が現れて「豆の木を切って、その幹で太鼓を作ってください。」と告げたので、村人が切ったところ、切り口には牛そっくりの赤い斑があったということです。 この太鼓は「豆太鼓」と呼ばれ、たたくとよく響く太鼓でした。長宗我部が攻めて来たとき、この太鼓を合図に皆が力を合わせて戦ったので、十河城はなかなか落ちませんでした。これに目を付けた土佐軍は豆太鼓を奪って自軍の合図に使おうとしましたが、どんなに強くたたいても太鼓は鳴りませんでした。土佐の兵士たちは腹を立てて豆太鼓を壊してしまったということです。村の人たちは、豆太鼓を惜しみ、後年バベガシの木で同じ形の太鼓を作り、豆太鼓の由来を今も伝えています。


秋元 定盛(あきもと さだもり)


十川東町椙尾神社の東側の田の中に、花崗岩の「アラメ石」で南面した表面には、定森の墓とだけ書いた二尺程の墓碑が立っている。秋元猪右衛門定盛を供養した墓だ。定森はその昔、十河存保の頃、長宗我部の十河城襲来の折に、存保が大内郡虎丸城に立て籠った時、十河城の城代として十河城を守った。東十川の政所を親子三代で務め、東十川を開墾、開拓した先駆者。