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わたしたちのふるさと 十河

平成6年に県道高松長尾大内線が開通して以来、十河校区の様相は一変しました。緑豊かな田園地帯には大型商業施設が立ち並び、次々と新しい団地が増設されていきました。6,000人あまりだった人口も、今は9,005人3,600世帯の方が暮らしています。この地で生まれ育った人、縁あってほかの地から転入して来た人、様々な人たちがコミュニティを形成しています。
新旧住民の交流を図り、十河の歴史と文化を共に学び、子どもたちに「十河は自分たちのふるさと」と思ってもらえるように、「十河のルーツと文化を探るプロジェクト」を立ち上げました。この冊子は地域の人と子どもたちがスクラムを組んで、「十河の香り活動」と銘打って15のグループに分かれ、地域の名人たちと子どもたちが史跡を巡ったり、ため池や米作りを一緒に調べたり体験したりして、その活動レポートを入れ込んでできたものです。子どもたちが学校のカリキュラムの中で地域の歴史や自然について学んでくれた事は、何よりも大きな収穫でした。子どもたちの学びから、改めて自分たちのまちを見直すことができました。十河小学校の校歌に「~あすのふるさとにないます~」という一節がありますが、まさに明るい未来を見た思いがしました。
今後も、先人たちの築いた歴史や文化を伝承していかなくてはなりません。老若男女が手を携え、子どもたちの笑い声が絶えない地域づくりを目指し、「人の和、心の環、地域の輪」の心をまちづくりに生かしていきましょう。

平成28年3月
十河校区コミュニティ協議会
会長 吉田 静子


わたしたちのふるさと 十河 カワセミ
わたしたちのふるさと 十河 獅子舞

十河歴史マップ


獅子王神社

1.獅子王(ししおう)神社
 

小村田之助の墓

2.小村田之助(おもれたのすけ)の墓

川西神社

3.川西神社
  

藤の森神社

4.藤の森神社

住吉神社

5.住吉神社

本宮神社

6.本宮(もとみや)神社

旧南海道

7.旧南海道

吉田神社

8.吉田神社

吉田神社内熊野神社

9.吉田神社内熊野神社

高松の名木クロガネモチ

10.高松の名木クロガネモチ

いぼ石地蔵

11.いぼ石地蔵

明神社

12.明(みょう)神社

荒神社

13.荒(こう)神社

西尾天神社

14.西尾天(にしおてん)神社

おばけ燈籠

15.おばけ燈籠

鰹宇神社

16.鰹宇(かつう)神社

椙尾神社

17.椙尾(すぎお)神社

孝女以呂の墓

18.孝女以呂(こうじょいろ)の墓

十河氏の墓所

19.十河氏の墓所
  

十河城跡称念寺

20.十河城跡称念寺(しょうねんじ)

山田神社

21.山田神社
  

天満神社

22.天満神社

熊野神社

23.熊野神社

弥吉金毘羅社

24.弥吉(やきち)金毘羅社


 


真宗興正派法光寺

1.真宗興正派法光寺(ほうこうじ)

小村町にあって、説教所として知られていた。昭和22年新宗教法人として寺号を称す。本尊は阿弥陀如来である。


真宗興正派法城寺

2.真宗興正派法城寺(ほうじょうじ)

旧吉田橋西にあり、吉田の庵寺として知られていた。昭和21年6月北海道上川郡下川村で松清山円光寺を開基した宇川円澄が帰県して、昭和22年6月12日中興法城寺を開基し寺号とした。


真宗興正派光清寺

3.真宗興正派光清寺(こうせいじ)

本願寺第八代蓮如上人の教えを受けた善良が、文明2年(1470)阿波穴吹に一宇を建立したのが草創である。後に山田郡下林村に移居、しばらくして現地に移る。
現在の本堂は、天保15年(1844)第七世智海が建立したものである。鐘楼は大正10年に建立。二層部分に「一切経」を納める経蔵をそなえた珍しい構造である。
高松松平家には、幕末、高松藩朝敵騒動の際、本山興正寺本寂上人のもと光清寺住職も尽力した記録が伝わっている。
開基以来500年余り、十川に移転以来350年の歴史を誇る。


真宗大谷派朔方寺

4.真宗大谷派朔方寺(さくほうじ)

約470年前天文年間に信州から天台の僧定讃が十河城下に移り、天正3年(1575)沙門智源が堂宇を建立して、定讃所持の仏像を本尊とした。城主となった十河存保は、現在の高松市上林町に禅宗東光寺を建立して菩提の寺とした。
一方東光寺は藩主に招かれて高松城下に移転した。後に東光寺の一堂宇を存保ゆかりの檀原に移して、智源の寺と合わせ東光山朔方寺と称し、本願寺末寺となった。東光寺跡出土の古瓦と、朔方寺本堂下から出てきた瓦が、布目十六菊紋軒瓦でまったく同じものだった。松平家からは独礼の寺として優遇された。独礼とは藩主に単独で会見できる資格のことで讃岐の国に六ヶ寺しかなかった。


古墳・遺跡

西尾天神社古墳

西尾天神が祭られている高さ3m、直径15m余りの土盛りが古墳で円墳と推定されます。
北に延びた尾根中央にある古墳で、神社建築や三角点設置のため、一部破損を受けているものの全体として良好に残っています。墳丘上に散乱している石材は、石室に使用されていたものと思われ、そのことから、石室は既に破壊されている可能性が高いです。
出土遺物が明らかでないため、築造時期等の詳細は不明ですが、墳丘の特色等から5世紀ごろの古墳と考えられます。
高松最大規模の円墳として知られる川島本町高野に所在する高野丸山古墳とともに、高松市を代表する巨大な円墳として貴重です。


西尾天神社古墳

小学生レポート

どんな遺跡があるか知っていますか?

私たちの地域には、西尾天神社があります。ここは、学問の神様といわれる菅原道真を祭ったもので、古墳の上に杜が建てられているようです。また、学校北校舎下には西下遺跡(飛鳥・奈良時代の建築跡)があり、新校舎建築時にその遺構が確認されています。


小学生レポート 西尾天神社

西尾天神社古墳を探検

西尾天神社は、西尾地区の住宅に囲まれるようにあります。全体の広さをメジャーで調べてみると、たて約40m、よこ約20m、高さ約4m、周りが約95mの円形でした。その中央にある古墳は、丸く土を盛った円墳で、直径15m位でした。古墳の一番高いところには、国土地理院の三角点があり、びっくりしました。


小学生レポート 西尾天神社古墳

まめ知識

地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された電子基準点、三角点、水準点等から構成される基準点は、地図作成や各種測量の基準となるものです。
三角点は、山の頂上付近や見晴らしのよいところに設置され、経度、緯度、標高が正確に求められています。
ちなみに、日本で一番高い三角点は富士山山頂の標高3775.5mのところにあります。


西尾天神社古墳の上にある四等三角点

西尾天神社古墳の上にある四等三角点

三等三角点 山ノ上墓地敷地内

三等三角点 山ノ上墓地敷地内

西下(にしした)遺跡

十河小学校校内から遺跡発見!!
1400年の時を経て十河の埋もれた歴史が明らかとなる!

2007年6月〜7月にかけて十河小学校校内で、発掘調査が行われました。この遺跡からは飛鳥・奈良時代(1300〜1400年前)の建物跡が確認されたほか、多数の土器が出土しました。
現在、これと同じ時期の遺跡でこれほど大きい建物跡が周辺で見つかった例はなく、7世紀の高松平野では最大のものであることがわかりました。
このときの調査によって明らかになったことはほんの一部です。当遺跡を含め十河周辺には古代の遺跡が広がっている可能性が十分あります。今後の調査によりさらに十河の歴史が明らかになってくることでしょう。


西下遺跡

東西3.7m以上、南北8m以上の南北に長い建物跡のようです。

建物跡と溝の方位を調べた結果、方位をそろえていることがわかりました。古代では土地を方形に区画する制度(条里制)があり、かつて高松平野には碁盤目状に広がっていました。西下遺跡はこの土地区画の方位と合うことから、計画的に建物が造られていたことがわかりました。


西下遺跡 柱穴跡から柱材が出てきた様子

柱穴跡から柱材が出てきた様子

西下遺跡 出土した柱材

出土した柱材

一辺約60cmの四角い形の柱穴からは、当時の柱材が残っていました。出土した柱材は直径13cm~17cmで、鑑定からカヤとイヌマキであることが判明しました。これらの木材は比較的丈夫で建築の材料に適した種類です。


西下遺跡 溝を掘りあげた様子

溝を掘りあげた様子

西下遺跡 出土した鳥形木製品

出土した鳥形木製品

長さ8.5m以上、幅1.4m、深さ0.6mの溝です。この溝からは多くの土器が出土しました。出土した土器から約1400年前の飛鳥時代のものであることがわかりました。
溝からは、木を鳥形に削ったものが出土しました。弥生時代から古代に見られるもので、まつりやまじないの道具と考えられています。

出土した土器

西下遺跡から出土した土器 杯蓋(つきふた)

杯蓋(つきふた)

西下遺跡から出土した土器 ハソウ

ハソウ

柱穴の中や溝から土器が出土しました。これらを調べて年代が分かることから、遺跡の時期を決めるものさしです。


十河(そごう)城


十河城はいつごろからあった?

室町幕府最初の頃には十河氏が武士団を率いていたと分かっているので、その頃には十河(十川)に城があったと考えられています。

どんなお城だった?

阿讃山脈から高松平野に向かって伸びる尾根の突端に築かれていました。この尾根は同じような高さ形のものが十数本連続しており、間の谷は護岸工事されていない川や湿地だったので、土地に不案内な者は迷います。 
十河城のあった尾根の土は、壁土に使う粘土が厚く堆積しており、堀(大きな溝)や土塁(土の壁)を作るのに便利でした。乾くとカチカチ、濡れると表面がヌルヌル。
城と言っても天守閣を持つ大きな城ではありません。もともとの地形を利用し、堀や土塁を巡らせ内側に住居や見張り台、武器・兵糧の倉が建てられたものです。
城の中心部分は現称念寺ですが、東の檀原の尾根に砦・南の出火山(だしやま)に烽火台・西の湿地の谷から西岡の尾根へと渡る抜け道があり、この一帯を広く使って城の守りとしていました。

長宗我部との戦はどんなだった?

土佐(高知)の長宗我部が四国を全部自分の領地にしようと戦を始め、四国で長宗我部に刃向かうのは十河だけになってしまいました。そのことはだいぶん前から分かっていたので、味方の織田信長に助けを頼んでいましたが、本能寺の変の混乱で、十河だけで四国中を敵として戦うこととなりました。
城の東にあった寺では、本尊仏を井戸の中に隠したと伝えていることから、御先祖様たちはかなり覚悟して戦に臨んだと推測できます。
天正10年(1582)秋、城に立て籠もり、谷筋を攻めてくる長宗我部軍を東西の尾根から挟み撃ちしたり、空堀に渡したからくり橋を外して城内に入った敵を襲ったりとよく戦いました。長宗我部は兵糧攻めに切り替え持久戦となります。閉じ込められた城では、忍者の前田甚之丞が抜け道を通り、敵陣に大将の寝首を掻きに忍び込んだものの、もう少しの所で失敗し戦は終わりません。城内は兵糧・矢玉も不足し、餓えがひどくなります。
粘りも虚しく、天正11年(1583)5月十河城は長宗我部にあけ渡されました。
戦中、前田甚之丞は食料を手に入れるためにも城を抜け出し、近隣から強奪したので皆から恐れられる存在となり、戦の後には土地も人心も荒れてしまいました。

今も残る城の名残

十河家の墓所

城跡(現称念寺)北

毘沙門天

城跡北東 城の鬼門にまつられている。

空堀(からぼり)跡

城跡北 東西に伸びる窪地がから堀の跡。からくり橋が架けられていた。

弁財天

城跡南西 城の毘沙門天の反対側に、毘沙門天の妻とされる弁財天をまつる。

北門の地蔵

城跡北 ここで戦って亡くなった沢山の兵士を供養するためにまつられた。

久保佐渡守屋敷跡

城跡東 十河氏家老の屋敷跡。

馬の墓


城跡北東 十河氏の家臣で馬医者でもあった池内氏の馬の供養墓。

孝女以呂の墓


東十川村宗三郎の娘、以呂の墓である。以呂は江戸時代中期、病弱で年老いた父母に、我が身を顧みず孝養を尽くしたことにより、藩公からほうびとして米三俵、銀五貫匁を賜った。この君恩に報いるため、毎月お城を拝みに行くことを常とした。死後その忠孝を後に伝えるため、村人が墓を建てた。

椙尾(すぎお)神社の鰐口(わにぐち)と豆太鼓


椙尾神社

椙尾神社には、高松市指定の文化財「鰐口」が伝わっています。鰐口とは、自社の拝殿に下げて布で編んだ網で打ち鳴らす鐘の仲間で、分かりやすく言えば、ドラのようなものを裏表にひっつけて下半分だけすき間をあけているものです。指定文化財になるくらいですから、「讃州山田郡十河郷椙尾大明神 大師堂 天心 文和三甲午年三月三十一日」の銘があり、室町時代初期のものでは香川県では一番古いものだそうです。
この鰐口にも「大師堂」と書かれていますが、ここには真言宗の神仏混合寺院がありました。古くには、神社の北東に護摩堂という地名も残っていたそうです。鰐口も護摩堂付近から出土したということです。十河城があった時代には、檀原地区も城下としての守りの一端を担っていました。特に城の鬼門の守りだった椙尾神社は、手厚く奉られていたと思われます。けれども、長宗我部氏との合戦の時に焼失してしまいました。
このほかに、椙尾神社には、こんな昔話のある太鼓が伝わっています。


高松市指定の文化財「鰐口」

椙尾神社に伝わる高松市指定の文化財「鰐口」

椙尾神社 豆太鼓

「豆太鼓」


昔々、椙尾神社の境内で赤い斑点のある牛が死んでいました。みたことのない牛でしたが、やさしい村人がていねいに葬ったところ、そこから一本の豆の木が生えてきて、みるみるうちに天にも届く大木になりました。ある夜、夢に牛が現れて「豆の木を切って、その幹で太鼓を作ってください。」と告げたので、村人が切ったところ、切り口には牛そっくりの赤い斑があったということです。 この太鼓は「豆太鼓」と呼ばれ、たたくとよく響く太鼓でした。長宗我部が攻めて来たとき、この太鼓を合図に皆が力を合わせて戦ったので、十河城はなかなか落ちませんでした。これに目を付けた土佐軍は豆太鼓を奪って自軍の合図に使おうとしましたが、どんなに強くたたいても太鼓は鳴りませんでした。土佐の兵士たちは腹を立てて豆太鼓を壊してしまったということです。村の人たちは、豆太鼓を惜しみ、後年バベガシの木で同じ形の太鼓を作り、豆太鼓の由来を今も伝えています。


秋元 定盛(あきもと さだもり)


十川東町椙尾神社の東側の田の中に、花崗岩の「アラメ石」で南面した表面には、定森の墓とだけ書いた二尺程の墓碑が立っている。秋元猪右衛門定盛を供養した墓だ。定森はその昔、十河存保の頃、長宗我部の十河城襲来の折に、存保が大内郡虎丸城に立て籠った時、十河城の城代として十河城を守った。東十川の政所を親子三代で務め、東十川を開墾、開拓した先駆者。


十河一存(かずまさ)・存保(まさやす)

小学生レポート

十河一存ってこんな人!!

十河一存は戦国時代の武将です。父は徳島県の三好実休、兄が三好長慶です。兄の三好長慶は足利将軍から桐の家紋を授かりました。これは織田信長も使っていた家紋だそうです。それほど権力があったことが分かります。兄は徳島県の阿波を、弟の一存は讃岐の十河を治めていたようです。十河城は1300年代に建てられたお城です。また一存は数々の戦いで強かったことが伝えられています。
ここで十河一存が鬼十河と呼ばれたエピソードを紹介します。


十河一存の木像

十河一存の木像

小学生が作ったキャラクター 一存くん

小学生が作ったキャラクター 一存 くん

エピソード1

寒川氏との戦いで十河一存は左腕にけがをしました。そのとき、痛みを悟られないようにしたそうです。ツタで止血し、傷口に塩を塗り込んで消毒をしたそうです。藤のツタを包帯代わりにして傷口に巻いて、再び戦場で猛然と槍を振るったそうです。想像するだけで痛そうですが、けがをしていることが周りの人にはばれなかったそうです。このため、一存は「鬼十河」(鬼十川)と呼ばれて敵に恐れられました。その武勇から家臣たちからも信望厚く、一存の髪型は「十河額」と呼ばれて、真似する家臣も多かったそうです。

エピソード2

しかし、十河一存は別に目立ちたがったというわけではありませんでした。彼は脂性だったのかもしれず、長時間、兜をかぶっていると、オデキができました。汗でべとついた頭髪が兜の下でむれてしまうのが原因だったそうです。
特に汗っかきの一存の場合は、夏場がきつく、かゆかったそうです。臭いもたまりません。そこで、前髪をぜんぶ引き抜き、さらに月代を大きく広げて剃ってしまった、というのが「十河額」の起源でした。

エピソード3

一存は病気になり、有馬温泉に湯治中、松永久秀がお見舞いに来ました。この時、有馬権現へ詣でる一存が葦毛の馬に乗っていたのを見て、久秀は言ったそうです。
久秀「権現様は葦毛の馬を嫌うから、別の馬に乗りかえられい」
一存は虫が好かない久秀の言うことなど聞かずに出かけ、落馬してしまいました。この時の傷がもとで急死した、と伝えられている説もあります。兄たちの年齢から計算すれば、まだ三十前後だったはずです。すぐ上の兄・安宅冬康も、久秀の助言によって長慶に誅殺されています。一存のあっけない死も、なんだか非常にあやしい話なので、この話が本当かどうかも分かりません。死亡したという日(三月、四月、五月など)も様々です。しかも、一存の墓は今でも讃岐の十河城の一画にあり、彼は城内で亡くなったといわれているからです。


十河物語の紙芝居

十河物語の紙芝居


十河存保って何をした人なの?

存保は、もともとは徳島の三好家に生まれ、養子として十河家にやってきました。そして8才のとき、鬼十河と呼ばれていた十河一存の後を継ぎました。19歳のときに上桜城という城を攻め、てきの大将をうちとったそうです。このことから存保は戦上手と言われています。その後は四国を支配しようとする長宗我部氏と戦い(中富川の合戦)、最後は大分県の大野川というところで討ち死にします(大野川の合戦)。
戦上手と呼ばれていたこともすごいと思いましたが、ぼくたちが一番すごいと思ったのは、九州の大野川で討ち死にした存保たちをとむらうための石碑が、今でも大分県で大切に残されていることです。最後は討ち死にしてしまったけれど、その土地で大切に石碑が残されています。


十河存保の木像

十河存保の木像

小学生が作ったキャラクター 存保くん

小学生が作ったキャラクター 存保 くん

十河氏の墓所

十河氏の墓所

大分県 十河一族の慰霊碑

大分県 十河一族の慰霊碑


大分大野川合戦まつり
大分の大野川まつりでは、四国勢として、讃岐の十河と土佐の長宗我部が毎年参加しています。


十河小 十河の香り活動(城グループ) 手作り甲冑で

十河小 十河の香り活動(城グループ) 手作り甲冑で


まとめ

十河一存・存保のことをたくさんの人に知ってもらいたい!!

十河に住んでいる人でも、まだまだ十河一存・存保について知っている人は少ないんだなと思いました。ぼくは十河一存・存保のことを調べて、十河にそんなすごい武将がいたことがうれしかったし、今住んでいる十河の地域がもっと好きになりました。だから、これからもっとたくさんの地域の人に十河一存・存保のことを知ってもらって、一存・存保のことも十河の地域のことも、もっと好きになってもらえたらいいなと思っています。